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1−4  騒音からの差異としての「音楽」

制度としての「音楽」が、逆説的に、ノイズ=音の無秩序状態という観念そのものを可能にしている。当然ながら、そもそも人間の媒介なくしては、騒音とそこからの差異としての「音楽」が立ち現れることはできない。ノイズ=非音楽的なるものは、音楽の「完全性」に対する余剰ないし外部として理解される。佐々木敦は、ノイズに関連して、録音技術について次のように述べている。

「『複製の複製』群が現実に『再生=聴取』される『いま、ここ』を構成する諸々のパラメーター−再生機器の特性やスペック、再生環境の条件、聴取者の身体的精神的コンディション等々−も、一度ごとに必ず異なっている。本来『音楽』を『再現芸術』足らしめるべく開発された筈の『レコーディング・テクノロジー』が、再現どころか無限の可能態へと『音楽』を押し開いてしまう」[3]

いかなる意味においても、音が、再び「同じように響く」ことが厳密にはあり得ないのだというとき、音の同一性は、その都度現れては消えていくものとして認識されなくてはならないだろう。デジタル・レコーディング・データの完全な同一性(反復可能性)がテクノロジーによって立ち現れると同時に、「聴取」の不安定さと、聴取を可能にしている条件の複雑さが明らかになるのである。
ここで音響派の立場を思い起こしてみるならば、表現的な意図/非意図を無効にしてしまうような音楽の制作や鑑賞における「態度」と、騒音と音楽との境界上で問題となる聴取の複雑性・不安定性が、「作者」と「作品」を同じベクトル=解体へと推し進めていると見ることはできないだろうか。
ジョン・ケージが、自身の初期の作品について「私は、偶然という手段を使って<表現的>な音楽の注文に応えられるかどうか、試してみようと思ったわけです。」[5]というとき、そこには「偶然」という、人間に取って代わるべき「表現の主体」が存在していた。その意味においてケージは、偶然に託すことによって、表現しない作曲家(記譜法)を可能にしたと言えるだろう。
しかし、作曲と演奏が結びついた地平において音楽を可能にするためには、偶然を用いるだけでは不十分である。何らかの意味で意志を作用させながら、なお、大文字の音楽から自由であり続けるために、いつも耳は開かれていなくてはならない。「混沌」とした音の風景から、いつ、どのような「音楽」が聞こえてくるかわからないのだから、それを聴き逃してはならないのである。