「音響派」と総称される音楽の潮流または音楽的な状況には、音の全体的な構造を把握することよりも、音の響きへと積極的に身を投じて、音色の内奥にまで感性を浸透させていく能動的な聴取のあり方が、前提されているように思われる。佐々木敦は、音響派を次のように定義している。
「まずもって、『音響派』とは、『楽曲』それ自体よりも、『音響』を優勢させる姿勢である、と述べてみよう。それは言い換えるなら、コンストラクションよりもテクスチャーを重要視する、ということである。」[2]
即興的な場における音楽の「到来」は、音のランダムな組み合わせの混沌において、自然的に発生するのではなく、あくまでも人間の感性がそれを感知することによってのみ、実現する。従って「音響派」の態度とは、音楽制作の実践においてのみではなく、音楽の聴取における姿勢にあっても、同時に可能でなくてはならないと考えられる。「『音』を意識的、能動的に生み出す主体は、必ずしも存在していないかもしれないが、『音』を聴く客体(あるいは主体?)がいないということはありえない。」 [3]のである。
Lap Top Orchestraを可能にしている感性には、少なからず音響派の存在が前提していると考えられる。申し合わせのない音楽家の共演においては、各々の音楽家の意志の重なり合いから「不意に」立ち現れる構成以外には、音像全体としての構造が成立する余地はない。「Orchestra」という名称が想起させるものとは相反するように、全体性を根拠にして部分を導き出すような思考方法が、あらかじめ不可能な形態なのだ。また、そのことは同時に、音楽家自身が聴衆を超えるような存在であることを拒否し、つくる者と聴く者という構図に守られた「観衆」のための場所を、狭めることでもある。そこでは聴衆もまた、音響の中を自らの耳で探査し続ける責任を課せられている。ジョン・ケージは「実験音楽−教義」中でこう述べている。
「『そう! ぼくは意図と非意図を区別しない』というなら、主観と客観、芸術と生活などという分裂は消えて、素材によって識別が行われるようになり、そうすれば行為もまた素材の本性に適ったものになる。すなわち、音はみずからを思考だとか、あるべきもの、自らの解明のために他の音を必要とするものだ、などとは考えていない−音はみずからの特性を実現することにかかりっきりになっている。音は消えてしまわないうちに、その周波数、音量、長さ、倍音構造、さらにこうした特性や音そのものの正確な形態を、まったく厳密なものにしておかなくてはならないのだ」[4]
人間がテクノロジーを介して音に積極的に関与している以上、意図の完全な排除は不可能であるし、また、意図が関与する度に、その背後にある音楽という制度がそこで作用することも避けがたいであろう。しかし、「音響派の聴取」は、まさに「意図と非意図を区別しない」態度によって、「非意図」にさえ固執せずに、音それ自体を感受しようとすることで、音楽と騒音の境界上に感性を投げ込むことを可能にしている。