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1−2 「全面的な意図」への否定的態度

テクノロジーと人間が関わるとき一般的に言えることであるが、とりわけ、「電子音響」と「デジタル映像」以後の環境においては、人間の想像力が「テクノロジーの発生させ得る音響の可能性の全体」を把握することは不可能である。特にサンプリング・テクノロジーは、音の録音、伸縮、変調を可能にすることによって、無限大のバリエーションを開示している。音のあるところへ赴いて、マイクを向ければそれを「撮影」して持ち帰ることができ、1秒間のサンプルから、原理的には、何時間もの音響を展開することもできる。
そこで「作曲」が可能であるとするなら、「構想すること」以上に、「よく聴くこと」が重要になるだろう。電子テクノロジーの操作対象となる録音、変異、合成の無限のバリエーションから、「楽曲にふさわしい」具体的な「音」を特定しなくてはならない。もし仮に、意識によって、和声とリズムの構造だけでなく、音色、音量が含まれるより複雑な音響の構造を「完全に」想起し構想できたとしても、それを実現するためには、やはり音の具体的な選別と検証が不可欠になる。通常その作業は部分的に、作曲と同じ次元においても行われなくてはならない。つまり、音の吟味を通じて作品の構想を補完しながら、作品全体を次第に完成させてゆくのである。
その意味において、コンピュータテクノロジーの介入を主因として、構想と演奏を同時に進行させる必要が生じた「音楽」(あるいは映画、コラージュ絵画、その他の「編集によって構築される」作品)は、無数の「素材」と「素材」が交錯する混沌の内に「生まれる」と言えるかも知れない。その瞬間、一回性において、音楽が自ら姿を現すのである。
音楽批評家の佐々木敦は、90年代後半以降の辺境的な音楽の総称である「音響派」に関連して、次のように述べている。

「そこに潜在しているのは、音というものを一種の物質として捉えようとする、唯物論的な姿勢である。音楽とは作曲者=音楽家の内面でイメージされた音像をリプリゼントするものだという旧弊な思想は、完全に捨て去られている。」[2]

目や耳に見出されることによって生まれる音楽「作品」は、作家の意識の中にあらかじめ存在しているイメージの具現では、必ずしもない。どのような方法を通じてであれ、作家の何らかの活動に伴って作り出されたものである以上、それは「作品」と呼ばれ得るが、しかしその「作品」は、特権的な立場の作家によって一方的に与えられる象徴的意味や、モチーフの再現、物語、あるいは表現的な構成さえ、必ずしも含んでいない。「それ」は確かに、あるテクノロジーと人間との関わりにおいて生まれるが、しかし、作品としての「それ」が、いつ、どのような形で訪れるかは音響を操作する当事者さえ予測できないし、時には意図に反して、突然、訪れてしまうのである。
そのとき「作品」は、行為する者を発信源とした観客への内容の伝播と共有プロセスなのではなく、作品から音楽的「内容」を読み取る「聴取者」の判断の内に存在している(作者もまた、聴衆のひとりとなる)。佐々木敦はまた、サンプリング音楽について次のように述べている。

「...ヒップホップやハウスなどを牽引した『オーディオ・サンプリング・テクノロジー』が、『他者』に属する『音』をアプロプリエイト(剽窃/転用)することで独自の『音楽』を作る手法を編み出していたわけだが、その時点ではいまだに『アプロプリエイション』の担い手=主体である『作者』は堅持されてしまっていた。」[3]

Lap Top Orchestraのような即興的な場においては、全体を指揮する「主体」=「作者」が、特定の音楽家個人には属していないと考えることができる。ここで興味深いのは、作曲または演奏が、「聴取」の内に存在してしまっている場合には、誰も作品を説得的に「聴取させる」立場になく、音楽に立ち会う者すべてが、自らの観点で音楽を見出す自由と、責任を与えられるということである。 意図する者が不在の状況ではしかし、「作品」は解釈を誘発しつつ多様な吟味に耐えるものであることが、重要と考えられる。精神性の発露、自己のプレゼンテーション、アイディアの表現としての「作品」は、その「目的」のために強力な構造を持ち、部分を全体へと動員せざるを得ないために、目的以外の解釈を拒絶してしまう。その意味において、物理的なフォームとしての「共作」や「協奏」と、即興的な関わりを通じて新たな音楽を出現させることとは、決定的に異なる。後者は、各々の人間の意志を凌駕する力が働くことを意味している。