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第二章  (映像)

2−1  凝視

minamo(杉本佳一、安永哲郎、岩下裕一郎、笹本奈美子)のライブ・パフォーマンス(東京・渋谷/2005年)では、客席に設置されたプロジェクターから、壁面に向かってDVDの映像が映写されていた。その映像はアブストラクトなCG画像のような、一見するとまったく動かない、何を撮影したものであるか把握し難い「実写映像」なのだが、注意深く観察すると、それが接写された「グラスの中の氷」であることが理解できる。minamoの30分程度のライブ・パフォーマンスの間、その氷は注意していないとわからない速度で、ゆっくりと溶けてゆく。時折、体積を失った氷が重力によってグラスの中を滑ると、その動きの「劇的さ」によって、そこに映し出された像が「動画」であることを思い出させてくれる。ライブハウスの喧噪に満ちた空間に裂け目を生じさせるような映像である。
minamoは、ギター、ラップトップ、キーボードによる非常にデリケートな展開の音響で知られるバンドである。杉本佳一らの「よく聴くこと」を促す音楽と、「よく見ること」を喚起するような氷の映像の「共演」には、感性の働かせ方において、明らかに通底する「態度」が現れている。
音響派の耳と、抽象画家・映像作家の眼に関連があるとすれば、「作家の意識の中にあらかじめ存在しているイメージの具現」としての制作態度から距離を置き、視覚的/聴覚的な体験を、「ただそれ自体」として扱い、映像や音楽をコンストラクションではなく、色や形の運動性、テクスチャにおいて理解するという態度においてであろう。ミュージシャンからの引用も多い画家・映像作家のスタン・ブラッケージは、次のように書いている。

「想像してみよう、人がつくった遠近法の法則などに支配されない眼を。構図の論理なんて先入観をもたない眼を。物の名前にただ反応するのでなく、生の中で出会うものたちを近くの冒険を通して知っていく眼を。”緑色”なんて知らずに這っている赤ん坊の目には草の上にどれほど多くの色があることか。何も教え込まれていない眼に光はどれほど多彩な虹をつくりだすことか。」 [6]

ここでは、「眼」の主体性、意識からの自立性が強調されている。この「呼びかけ」を自ら実践するかのように、スタン・ブラッケージの作品は、色や形を発見する喜びに満ちており、解釈を必要としない、視覚の音楽のようである。
また、音楽の分野では、音楽家・メディアアーティストのクリストフ・シャルルが、自身の作曲手法についての文書の中で次のように述べている。

「ジョン・ケージやその仲間、弟子たちの作品を聴くときには、耳を突き出して、自分で、そして自分のために作品を発見し、再構成しなければならない。ケージにとって、作曲することと演奏すること、そして聴くことは、三つの異なった行為である。不確定性という性質は、三つの行為のそれぞれに特有の努力を要求する。」[7]

minamoの音と映像のパフォーマンスは、「先入観をもたない眼」と、「耳を突き出」す「努力」を、聴衆に対しても暗に「要求」するだろう。minamoの音楽と氷の映像の、穏やかな表面の内に起こっている多くの出来事は、耳を突き出し、目を凝らす者にしか訪れない。そのとき「作品」は、作者の専制の内にあるのではなく、観客の積極的な態度との共同作業によって、初めて成立するようになるのである。