映像の制作者が、映像データの再現される環境に積極的に関与しない場合、制作者は、どのような機会に、どのような空間で、どのような装置を用いて、どのような人たちによって(つまりどのような環境において)その映像データが「再生」されるのかを把握・操作することができない。その場合、データとしての映像作品の作者は、鑑賞者の体験の発端にしか関わることができないのである。そして作品は、データの不変性・固定性によって、まったく逆説的に、現場の複雑な性質への配慮を欠いた硬直=「退屈な不確定性」の中へ投げ出れることになる。クリストフ・シャルルは、次のように述べている。
「芸術家はまず、作品に対する『責任を忘れる』べきである。責任とは、完成した形のことである。あまりにも完成してしまうと、形は新鮮さを失う。」[7]
ここで言及されている「完成した形」とは、聴衆の主体的関与と相反するような、作家・作曲家による一方的な作品意図の達成を意味するであろう。つまり、聴取におけるそれと同様に、「映像」の同一性が、その再現の不完全さによって一回性に由来していると考えるとき、環境を構成するあらゆるパラメータ・文脈に応じて変化する、生命をもった作品が構想されなくてはならない。作品の可変性/柔軟性は、作家によって、「有意義な不確定性」として与えられるのである。クリストフ・シャルルはさらに、次のようにも述べている。
「作品が『完成』したと言った場合、それは、ネットワークの中の動きに応じて常に柔軟に姿を変えることができるということを意味する。」[7]
「映像データ」の可変性/柔軟性を、「再生環境(ネットワーク)」に対する緻密な配慮抜きに考えることは難しいだろう。映像を取り巻く物理的な要因を直接的にコントロールする方法としては、再生するための装置と場所を限定する(インスタレーション)か、再生される現場に立ち会うこと(パフォーマンス)が考えられる。これらの方法は、映像が個別的な環境に反応し、変化する「機会」を与えることになる(その機会をどう生かすかは、作者、または鑑賞者次第である)。
この「機会」に意識的であろうとするなら、あらかじめ想起されたイメージないしアイディアを再現する手段としての映像テクノロジーを放棄することは、ひとつの有効な手段である。その場合、イメージの生成過程にゆらぎに対する許容を与え、かつ作品自体がいつでもその秩序を再構築できるようにすることが必要になる。
作品に対する「インタラクティヴィティ」の付与は、ゆらぎを導入する有効な方法であると考えられるが、主体をいつでも解体し、再構築する方法としては不十分である。作品が、自己の同一性を保ったまま状況を「取り込む」のではなく、見られる度、現れる度に新しく生まれ変わる環境適応性は、対話性ではなく、運動能力、連続的な自己形成能力として与えられる。
既に触れた音響の場合とほとんど同様に、カメラで撮影された素材を選択し、組み合わせる手法(「サンプリング」「トランスレート&モジュレート」のような)や、コンピュータグラフィックス(「シンセサイズ」「ライブ・エレクトロニクス」のような)においては、テクノロジーが開示する映像の操作可能性の全体(奥深いかは別として、ピアノのそれよりもずっと多岐に渡る)を、人間の想像力によってあらかじめ把握することはできない。映像の「サンプリング」や「トランスレート&モジュレート」、「カット」には、(少なくとも音響のそれと同じ程度に)膨大な可能態が埋蔵されており、その範囲は度々、テクノロジーの開発者の意図を逸脱する/超え出る(ここでサンプリング・テクノロジーと呼ぶものは、必ずしも「正しい使用法」を前提としない)。それらの予見不能な可能性を「作品」が常に取り込み、驚きに満ちた生命を獲得するためには、精密なコントロールによって作品の輪郭を不確定にしておき、未知の形態が作品へ入り込む余地を残しておかなくてはならない。見出されるべき何ものかの不意の到来に備えて、眼(=作品)は、常に高い集中力とともに、開かれていなくてはならないのである。
映像の「生成」や「解体−再形成」のような、無限のバリエーションのどこに焦点を当てるか、ということの連続として動的に(不定形な)映像を構築する制作手法は、「演出」にその特権の放棄を迫る。つまり、全体を統一的に束縛する構想や法則を行使しないように努めることで、運動や、形、色の物理的な働きを強調するのである。