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2−3 「騒々しい光」の非中心性

映像の演出において、素材のもつ性質(速度、構造、質感、象徴性等)に基づいて全体を構成する方法を計画するとき、観賞においても、象徴的な意味性からの自由に期待しなくてはならない。それは、作品の行き過ぎた「完成」を回避し、解釈の流動性を確保するために必要なことである。
特に鑑賞者に対して、観念的な水準での解釈の放棄を迫るような、徹底的に非−意味的・非−象徴的な(しかし極めて意図的である)映像は、例えば、エレクトロニカ音楽の古参であるオウテカと、映像作家のアレクサンダー・ラタフォードの共作ミュージック・ビデオ「ガンツ・グラフ」(2002年)に見ることができる。ガンツ・グラフは、「音に完全にシンクロしながら、3Dで描かれた、何かマシンのようなモデリングが、ものすごいスピードで変化していく、ただそれだけで、他の要素は一切ない」[8]映像である。ダイナミックかつ絶え間ない動きによって、その対象がどのような形であるか/何であるか、ということが認識不能な状態にまで複雑化している。アレクサンダー・ラタフォードはインタビューの中で次のように述べている。

「あのアイディアはある時ふと湧いて、それ以降ずっと頭にあったものだ。特に何かという訳じゃなく、むしろ抽象的なもの。小刻みに変化することで、あれが何だかさっぱり分からないようにしたんだ」[9]

「眼」が、映し出された「形」を対象化し、フォルム/シェイプとして認識する前に、画面上の光は変化してしまう。そのことによって、「意味」は(「消去された」のではなく)捕捉される前に別な場所へと移動し、徹底的に視線を迂回していく。結果として、意味が回避され続けるために、それ以外の要素−速度、質感、時間軸上の構成等−がクローズアップされるのである。
映像の可能態の全貌が、人間の想起力によっては十分に把握され得ない、ということとは異なった仕方で、ここでは、画面上の情報量の過剰が、そこに中心的な意味を見出すことを不可能にしている。意味の過剰(例えばジョン・ゾーンの「ネイキッド・シティ」が、「ジャンル」の過剰・併置によってそれを無効にしたような形での)ではなく、意味そのものが不可能になってしまうような多中心性/不定形性の過剰が、ここでは意図されているのである。対象をもたない芸術については、かつてラズロ・モホリ=ナギが、造形諸派の紹介の中で次のように述べている。

「新造形主義、絶対主義、構成主義は、その素材を明確に理解し、有機化しようと試みた。彼らは、自然を鏡のように映しだす伝統的な欲求を、全面的に排除した。(中略)彼らは、視覚的な表現手段を、秩序と調和の投影のために用いようとした。」[10]

多中心/不定形の映像は、構成主義のように自然的なモチーフの再現でないだけでなく、観念的なアイディアの視覚化でもない(オスカー・フィッシンガーのアニメーション作品「スタディ」シリーズ等は、律動という「モチーフ」を持っている)。「ガンツ・グラフ」では、依然としてマシニックな質感は表現されているものの、「あり得べき形態」の放棄が意図されている。つまり、作品の鑑賞者は、作品の内に特定の意味や形を見出すことを義務づけられていない。作者はどのような意味や形を見ることも強制せず、ただそこに「提案」するだけであるから、ある意味においては観客の責任はより重くなり、作者の特権は減じている。ただし、そのプロセスを構築する者、つまり意図したり、行為したりする者としての作者は健在であるし、その意味で不定形性や不確実性がその中心的なアイディアとして用いられている作品においても、「創造性」を完全に放棄することは依然として不可能であり、またその必要もない。ここにあるのはただ、イメージまたは音楽の潜在的な不定形性を強調する、という態度である。