「映像作品」が、上映の場においてその内容をかなり大幅に変化させ得るということを、私はある上映会で学んだ。私の作品の上映中に、音声がよく聞き取れないという理由から、上映館のスタッフがその箇所の音量を意図的に大きくして上映したのである。私は「よく聞き取れない」音をそこに置きたかったのだが、失敗した。
映像と音声からなる「映像作品」をどのような光と音に変換するかという再生の「物理的な側面」の制御について、映像作家は、必ずしも特権的な立場にない。再生方法によって、映像はまったく異なる姿となり得るのであり、またその意味合いさえ大きく変えるにも関わらず、作家の責任はビデオテープ(またはフィルム)を「創る」ところまでであり、それ以降は技術屋の仕事である、と、素朴に信じられていることが少なくない。このことは、「上等な」映画館であれば自動的に解決する問題というわけでも、必ずしもない。真に問題になるのは、作家とスタッフの意識である。度々、作家や演奏家は、スタッフにリクエストを十分に聞き入れてもらえないという苦境に陥り、また逆に、作家や演奏家が会場にあまりにも無頓着で作品の効果が十分に発揮されない、ということが起こるのである。
一方、上映環境の曖昧さにも関わらず、ひとかたまりの映像をビデオテープに缶詰状態にして収めた瞬間に、それは、「作品」として「固定した輪郭」を期待される。私はダンス公演のパフォーマンスの一部、あるいは一回限りのイベントの上映等のために、いくつかのビデオトラックを制作したことがあった。それらのビデオトラックは、(ステージやイベントの空間と結びついている)そもそもの「生まれ」においては、「映画」や「映像作品」ではない。しかし、ひとたびタイトルを冠し、ビデオテープに収めらると、「小さな映画」として人々に見られるという運命を背負うことになる。私はそのことを、映像の上映会へ曖昧な性格の作品を提出することを試みるにつれて、理解していった。と同時に、「映像作品」という観念に対する違和感を抱くに至った。私の作品は実写のドラマから始まったものの、音楽への接近をエネルギーにしながら抽象度を増していったために、次第に「映画館」に似つかわしくないものになってしまっていたのである。
「音と映像のパフォーマンス」への作品形態の変化は、そのような事情によるものである。映像(映画)があまりにも制度化されているために、そうせざるを得なくなった、という表現のほうが正確かも知れない。
「演奏者」や「パフォーマー」は、少なくとも映像上映会における作品の制作者のそれよりは、リハーサルを通じて、スピーカーやプロジェクターの再生環境を整えるためにスタッフと交渉する権利を与えられているように見える。その意味で、映像作家として活動するよりは、行為者として活動するほうが、現在の私にとっては自然であるように思える。「映像」の立脚する歴史性が様々な場面で明らかになるにつれて、映像でありながら映画/映像作品でないフォームはいかにして可能か、という問題に向かいつつあった私にとって、パフォーマンス・ユニオンであるONZO(オンゾ)の人々と、pico pico stomachsとの出会いは幸福であった。そこでの実践を通して私は、音楽と、映画と、光と、それらを通じて行為するということを、結びつけて考えることができるようになったのである。
本稿において、私は「不定形」を核にして、映画(イメージの言語)や音楽の制度性、歴史性の外側へ向かう創造が、実際には不可能であるという側面を抱え込みながら、どのようにして試みられ得るか、ということを考察してきた。論としては甚だ不十分なものにとどまっているが、私の作品を取り巻く環境の言語化を、ひとまず開始することはできたと思う。
最後に、本稿の執筆と修了作品制作に当たってご指導をいただいた東京藝術大学の伊藤俊治先生、木幡和枝先生、古川聖先生、また現場において、度重なる貴重なご助言を下さった武蔵野美術大学のクリストフ・シャルル先生に、厚く御礼申し上げたい。
2006年2月3日
菊地玄摩