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3−5  混沌を生き抜く認識方法

膨大な情報(音楽と映像に限らない)の全てを所有し、俯瞰することが不可能な状況においても、細部の成り立ちを無視するわけにいかないとすれば、木の全体を見ないままひとつひとつ葉を吟味していくことしか、私たちには許されないだろう。頭脳が、幾千もの葉の集合を想起することがあったとしても、それは木そのものではなく、木の虚像にすぎないのである。作家や、音楽や映画がたとえ幻影のようにしか成立しないとしても、むしろだからこそ、そのような「状況」=量的な限界を引き受けた上で、それを生き抜く認識方法が切実に必要となるのである。
音楽と映像の制作現場で用いられるテクノロジーとメソッドが、汎用コンピュータによって統合されるほど(90年代に入ってそれはほぼ達成されたと言ってもよいかも知れない)、「扱い得る」情報の多様さと操作のし難さはますます深刻となり、素朴な判断を危機に陥れることになる。コンピュータは活字を拾ったりインクの線を引く職人の仕事を奪うかわりに、活字の並びやカーブの成り立ちを見極める「眼」に、かつてない困難な仕事を要求する。コンピュータは、巨大なバリエーションやコピーの山をつくることはできても、その中から(人間がするように)「何か」を選択することは、結局のところできない。哲学者のヒューバート・L. ドレイファスが指摘するように、コンピュータは身体を欠くために、全体的な思考を自律的に発展させることができないのである。しかし一方で、その「計算能力拡張機」の徹底した、やみくもで膨大なバリエーションの生成が、「人間的な計算能力」では決して辿り着くことのできない場所に、金脈を掘り当てることが、芸術においても、数学においても、度々あることは認めなくてはならない。
作品への不確定性の導入は、結果が不明な領域(コンピュータのそれに限らない)で遭遇する「飛躍」を取り逃さないようにするための、認識方法・能力の獲得を目的としている。その実践は結果的に、今日的な状況を形成している諸制度に動揺を与えることになるが、しかしまた、そのことは同時に、感性と制度のアップデートでなくてはならない。音楽や映画は、その存立する領域を常に揺り動かしているべきである。しかし、その全領域を騒音に帰して、あらゆる意味を喪失させてしまうような死と、発見に満ちた動揺を混同してはならない。破壊のための破壊は、退屈な混乱しかもたらさないのである。