私が音と映像のパフォーマンスの実践において、繰り返しその重要性を確認してきたのは「よく聴くこと」と「よく見ること」である。「よく聴く/見る態度」は、積極的に、音や色、形のもつ複雑な内容に接近し、それらに自らの感性を浸透させることを意味する。その態度は、音の総体からその構造を把握したり、映像から物語を読み取ることとは、別種の注意力を要する。音楽や映像において、大局的な操作から漏れだしてしまうような細部を問題にするならば、「構造」を読み取ろうとする意志、あるいは「構造」的に創造しようとする意志からの自由が必要となるのである。
本稿は、現代の非−構造的な創造行為または作品受容の感性の在り方を、「音響派」を中心にしながら考察する。「音響派」は、90年代後半に世界中に登場した、極端な音域や微細なテクスチャの強調、または「楽曲的な構成」の解体を特徴とするサウンドの担い手たちの総称である。この呼び名は既に日本の音楽批評やその他の場において極めて頻繁に用いられているが、必ずしも特定の現場や方法、または「ジャンル」を明確に指し示している語ではない。「音響派」は、21世紀初頭現在進行中の「状況」ないし「潮流」に対して与えられた、とりあえずの呼称でしかなく、その具体的な意義の解明については、今後の議論を待たねばならない。改めて触れるが、本稿の音響派に関する認識としては、佐々木敦氏による定義「コンストラクション(構造)よりもテクスチャーを重視する姿勢」をお借りしたい。また音響派一般については、同じく佐々木氏の著書に詳しいのでそちらをご参照いただきたい。
「テクスチャーの重視」は、私の音と映像のパフォーマンスにおいても顕著である。構造は見出されるとしても、それ自体は意味を成さない/必要とされない状況へ接近し続けることが、私のパフォーマンスの基礎的な姿勢となっている。この志向と実践を「非−定型性(運動)」への意志と方法として考察し、記述することが、本稿の目的である。