ビデオ・テープやDVDの形態で「映像の缶詰」を発表することに対して、インスタレーションとパフォーマンスは、より多くのパラメータをコントロールし得る可能性において、「より確実に」不確定性を作品へと導入できる。一般的に、作品をインスタレーションと呼ぶ場合にはある一定の空間を占める装置を指し、パフォーマンスと呼ぶ場合には行為者と鑑賞者が共有する体験の時間的な広がりを指すが、厳密には、両者を明確に分け隔てる境界を設けることは難しいだろう。
作曲家・池田亮司の「コンサート」である「formula [prototype]」(東京・恵比寿/2001年)では、客席から作者を含む「人間=行為者」を見ることはない(オペレーション・ブースは会場後方にある)。暗転した会場の中で、前方スクリーンと照明に向かって座り、音源を聴き、映像を観ることになる。この場合の作品を、体験可能な時間が限定された池田亮司によるインスタレーションの一形態、と呼ぶことも可能であるように思われる。しかし一方で、特定の場所の、一回の「コンサート」のために準備されたセッティングは、CDに収められた「作品」に対する意味での「ライブ」性を有しているということは、明らかである。
メディア・アートや音響、エレクトロニカ等のパフォーマンス・イベントにおいても一般的に、PA(音響装置)のセッティングを始めとして、多チャンネル・スピーカーや特殊な発音・発信装置、ビデオ・プロジェクターやその他の映像・照明装置、センサー類等を会場にレイアウトする必要が生じる。作品内容と深く関係する(セッティングによっては作品の構想の一部または全部を放棄せざるを得ない)これらの装置の設置計画は、装置の総体を作品とするインスタレーションと、ほぼ変わらない準備を要する。つまり、両者は装置を用いて空間をアイディアで満たすという点において一致している。それは「ミクスト・メディア」でない場合のほうが稀であろう。特にコンピュータを用いたパフォーマンスでは、パフォーマー自身がコンピュータに接続された何らかのセンサー・デバイス(MIDI機器だけでなくマウスやキーボードも含まれる)に反応して音や映像が出力される装置(インスタレーション)を、観客に代わって体験・実演していると解釈することに、決定的な異論を差し挟むことはできないのではないだろうか。インスタレーションとパフォーマンスが、場に固有の条件に対してより深くコミットすることで、作品内部に環境的な要因を導入するという点において一致していると考えるとき、タイム・ベースの作品として捉えればパフォーマンスと呼び得るものが、スペース・ベースの作品と捉えれば即刻インスタレーションとなってしまうという事態(またはその逆)は、ごく自然に起こり得るのである。
音響と映像の体験をより厳密に・より複雑に成立させようという考えから、空間に即してコンポジションを調整し、場合によってはそれが現れる瞬間においても変化し続ける余地を残す方法は、少なくとも観念的には、同じアイディア/メソッドに基づくことができる。ここで「音響」と「映像」を扱っているのは、部分的には、音にはスピーカーがあり、映像にはプロジェクターや映写機があるという事実に拠っている。嗅覚の映写機や、触覚のスピーカーがより一般的であるならば、それらの体験も、同時に構築可能であるかも知れない。
「不定型性の音楽・映像」は、人間の手によって生まれ、人間によって見出されるものでありながら、作家にとっても観客にとっても、意外性に満ちた他者となるはずである。なぜならそれは、感覚を通じて世界と注意深い対話を開始したそのときに、意識へ突然進入し、「現前」する、音や光そのものだからである。構成やモチーフではなく、音と光の響きを見出すアイディアから始めることは、その「到来」を阻害しないために必要な条件である。
ブラッケージが「”はじめに言葉ありき”以前の世界」[6]と呼んだものは、明確に意識化できない色、形、音への開かれた態度によって、辛うじて可能になるのではないだろうか。「未だ主もなく客もない」状態から出発しなくては、意識に「気づき」がもたらされる機会が、永久に失われてしまうのである。