不確定性を導入した音響・映像は、「偏在し、未だ名付けられていない、見出されるべき何ものか」へと向かって開かれていくことを可能にするために、不定形な音響と映像を次々に生み出していくプロセス、として実現されるものである。
断片をつなぎ合わせることで、音響と映像を同時に操作・構築していく「ライブ編集」は、演奏者と観客の注意力によって見出される作品を実現するための方法である。この方法における構築は、動画と音響素材の「組み合わせ」の無限のバリエーションから、ひとつを選び出して提出することの繰り返しを意味する。そのため、音とイメージの断片の関係は、作品が反復される度に変化し(あるいは反復される度に生まれ変わり)、原理的には始まりと終わりを特定することができず、反復することもできない(されるべきでない)。
音響・映像を絶え間なく生成するために、音響や光の意味作用ではなく、その響きから出発することは、重要な原則である。構造の完成に向かって出発するのではなく、響きの重なり合いそれ自体が次の「展開」を導き出していくことによって、終末あるいは結論を回避しようとするのである。
音と映像の関係についても同様に、どちらかがどちらかに先行することは避けなくてはならない。映像の風景に従属し、受動的にその内容を決定されるような「音」ないし「音楽」や、(あるいはその逆に)サウンドスケープにテクスチャやスピードを「同期」させた「映像」は、限定された関係の内にその可能性を閉じてしまう。音と映像が対等の地位を占め、互いに浸透し合うことが、予測から逸脱してゆく音楽と映像の訪れ=即興的事件を起こすためには必要である。「響き」を重視するのは、その「訪れ」を妨害しないためのひとつの方法であるが、オートマティズムを主張し、音楽や映像に関わる主体としての人間を否定するのではない。なぜなら、この場合、人間の意志は常に働いているし、積極的な関与はむしろ強く要求されるからである。
他の要素と互いに浸透することができる(互いに無用な妨害をしない)音・映像の素材を蓄積することが、音と映像を組織するための前段階の作業として必要である。その蓄積の上で、あらゆる「組み合わせ」が可能な状態が生まれてくるのである。逆に、その蓄積の量的な限界と、その質的な偏向が、「完全な」即興性や自由を不可能にしている。「音」や「光」を物理的に構成する時間的・空間的限界があるだけでなく、目や耳が開かれている限り、「音楽」や「映画」の制度が抱え込む歴史性が、人間の感性を束縛することによって、多くの飛躍を不可能にしてしまう。
それでも、何かの観念や意味を説得的に「伝える」ために音響・映像を組織することや、ある全体的構想に従って音・イメージを組織することから、可能な限り離反することはできる。機能的目的や意義的目的のために、視覚的・音響的要素を「動員」したり、ある秩序やモチーフが前提し、それを実現するために視覚聴覚その他の感覚を操作していくのではなく、音や光の存在そのものが自らその姿を現すように「促し」、その意味を外側から限定する力を極力弱めることによって、多くのシチュエーションに対応した変容を生み出す能力、つまり素材の本来持っている柔軟性と相互浸透性を発揮させることは、それが十分に実践され尽くしたと言い得る状況に至るまで、有効性を保持し得ると考えられる。