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3−3 「pico pico stomachs」の即興性に関連して

映像・音響作品への不確定性の導入を、ライブパフォーマンスとして実現するアイディアの基礎を提供した、pico pico stomachsという4人組のユニット(藤野卓俊・小柳淳嗣・工藤雅之・菊地玄摩)は、「バンド音楽」を強く志向したフォームによる音源制作から出発し、現在ではラップトップコンピュータによる即興演奏を行うユニットである。
pico pico stomachsは、初のライブパフォーマンスとして、2003年3月に東京都写真美術館で行われた「インフォメーション・アートの想像力展」のパフォーマンス・プログラムにku/ma(空/間)というライブパフォーマンス用ソフトウェアを発表・実演し、また同プログラムにおいて、Lap Top Orchestraに参加してクリストフ・シャルル、NIBOと即興的な演奏を行った。ku/maは、スコアの操作によって音響を変化させるパフォーマンス・アプリケーションである。一周をひとつのループ単位とする円形のスコアに、音響素材を配置することで即座に音響が生成される。ku/maの実演においては、4人の操作過程が直接観客からも観察できるように、4台のプロジェクターを用いて操作画面を壁面に投影した。
以後、首都圏を中心に数多くの演奏を行うなかで、pico pico stomachsは、ku/maから他のソフトウェア、ギター、サンプラー等を含む多用な手段へ移行しながら、音響を複雑化し、即興的な対話性を増していった。バンド、楽器演奏者、ダンサー、映像のアーティストとの多数の共演を行いながら、2003年より音と映像のパフォーマンスイベントシリーズ「Phantom Bug(ファントム・バグ)」を主催するようになる。また「ONZO(オンゾ)」というレーベルを組織して、音響、映像、行為芸術の表現者が共同で作品を発表する環境構築も行っている。
2005年現在のpico pico stomachsの演奏は、事前に内容を申し合わせることがない。どんな音で開始するのか、どんな音で終わるのかも予想することができないまま、演奏が開始される。四人の演奏者が最初の音を出すと、全員が互いの音と全体像を把握し(ごく基本的なものだけでも3×4通りの関係が存在している)、次のバランスへ向かって4つの音が自律的に変化していく。次の音像に至ると、さらに次の変化が開始されるという繰り返しのプロセスが、「演奏」を前進させていく。この方法は、Lap Top Orchestraのアイディアをルーツに持っているが、pico pico stomachsはバンド形式から出発し、互いの音楽的ボキャブラリを把握している「固定メンバ」による演奏という点で、Lap Top Orchestraのそれとは異なっている。実際に、経験の蓄積はある種の予定調和的な演奏や、「退屈」を回避することを可能にするノウハウとなっていく。Lap Top Orchestraのように未知の要素が未知のメンバーという形で与えられない以上、経験から自由になるために、pico pico stomachsにおいては蓄積から積極的に「離反する」ことも必要になるのである。
私のソロ音響パフォーマンスでは、音を構成する基本的な手法について、そのほとんどをpico pico stomachsの方法に拠っている。pico pico stomachsは映画的情景の再現を音楽的なボキャブラリとして多用するが、ソロではそれらを排除した、より即物的な音響の操作を主体にしている。それは、映画ではなく単なる風景に近づくもので、文学や詩よりも、自然科学や写真、具象絵画の関心に近いと言える。即物的な音の風景は、拡大されたり、異質なものが組み合わされたりすることで、多様なテクスチャへと発展させることができる。一方で、シンセサイザーを用いて制作された音響素材を、pico pico stomachsの演奏時に変形を加えながら再録音し、ソロその他の演奏に「再利用」するプロセスもまた存在する。これらの素材には、他の演奏者との関係の中で生まれた運動性が定着されているが、それが新しい関係の中でも生きるということが、多くあるのである。
主体的に判断する人格を「4つ」含むpico pico stomachsでは、演奏者の4人が互いの音に集中力を用いることで、半ば自動的に「特権的な主体」を削除することができるが、コンピュータを用いたソロパフォーマンスにおいては、作用する人格がひとつであるが故に、1秒後、1分後、あるいは10分後でさえ、「厳密に計画する」ことが可能になる。ソロにおいては、他の演奏者へ(音を使って)異議を差し挟む者も、それを助長するような動きをする者も、人格としては現れない。そのため、ソロパフォーマンスにおいて「ライブ」が意味するのは、素材の重なり合いによって見出される新たな側面を行為者が発見し、反省的に対話するという「コーディネイター」としての方法と、素材と「同化」し、自らが素材自身となって他の素材と対話するという方法に、より強くコミットするということになる。