「形」や「意味」の成立を回避し続ける不定形な3DCGの形態が、極端な高速または低速で変異し続ける映像、というコンセプトは、2002年から2005年にかけてFONOTIAC(菊地玄摩、藤野卓俊)やvitaというユニット、またはソロの映像パフォーマンスという形で実践された。
FONOTIACの映像では、安定した輪郭、特定の色、特定の比率の画面分割の除外を意図している。「動き」と「奥行き」、「テクスチャ」以外の要素が常に高速で変化することによって、「形」や「意味」を捉えることが難しい状況を作り出している。
非中心性(非線形的で量的な構造)は、映像素材が他の素材と自由に組み合うことができる「開放的な性質」を持つための、ひとつの方法である。映像の象徴性や物語性は、映像の「音響的」な取り扱い(「ストラクチャー」よりも「テクスチャ」を強調すること)のために、除外された。
FONOTIACのパフォーマンスにおいて即興的にミックスされる映像素材は、主に3DCGソフトウェアの「plasma」のジオメトリ・エフェクトを用いて制作されている。エフェクトのランダマイズに用いるパラメータの調整によって、計算上の立体物として仮想された物体を、高速・低速で変化させ、またそのような物体を複数重ね合わせることによって、ホワイト・ノイズ的な混乱から、小さな、または少し大きな周期を作り出すことができる。例えば、黒い物体と白い物体を重ね合わせて両者に違うパラメータを与えると、「黒い時間帯」と「白い時間帯」が、交互に、あるいは混ざり合って現れることになる。また、黒と白が境界を生じ、その運動が始まるのである。これらの運動・周期は、乱数による変化だけでは作り出すことができない。
そのように周期性を備えた視覚的ノイズとして作り出された後、映像素材は「採取」され、「分類」された上でアーカイブへ蓄積されていく。この方法は、森で採取された植物を標本化する作業にも似ている。映像は、その速度、テクスチャ等の特質、または採取(撮影)された日、生成方法等によって命名され、ストックとして格納される。
パフォーマンスにおいては、これらのアーカイブを「modul8」に登録し、任意の映像を選択しながら、次々に合成する。この時点においても判断に作用するのは、素材制作と同じように、テクスチャや明度の移ろいとしての運動性(周期性)と多様性である。異なる運動を持つ映像を重ね合わせると、そこにはある種のポリリズムが発生し、視線を泳がせ、凝視させる傾向を作り出す。また、異なるテクスチャの共存も、同じような効果を生じる。
ここで「VJ」について触れておきたい。「VJ」(映像の即興的ミックス)というフォームが、テクノ、ハウス、ドラムンベースといった音楽と結びつく場合には、多くの場合、音と映像を「グルーヴ」において接続する、照明効果を狙った映像パフォーマンスを指す。ミラーボールやスポットライトが演出するものと、「VJ」が生み出す効果はほとんど同一のものと言える。それは、「よく見ないこと」を導く効果である。映像素材の執拗なループは、細部への関心を削ぎ、動きをよく吟味することを、フロアを埋める「オーディエンス」に放棄させる(「踊り」にきた人々に吟味は必要ない)。そして、ループが次第に変化する「大きな流れ」によって、DJと共にフロアを陶酔と予定調和へと導いていくのである。VJは、そのような仕方で、「細部」を忘却していく。
FONOTIACにおいては、音と映像の関係性のためにむしろ「無関係性」が強調され得る。無関係性は、音楽が映像を、映像が音楽を対象化するために、「同期」への反発として意図される。音と映像を「スピード」や「テンポ」や「テクスチャ」において「同期」させることは、それが完璧に達成されるほどに、関係の希薄さとして空疎さをもたらしてしまう。「同期」は、物理的な現象の視覚的な認識と、聴覚的な認識のシンクロナイズを模倣しているのであって、その完璧な実現は、コンピュータを用いて努力するまでもなく、目の前の物体を叩いたり、擦ったり、曲げたりすることによって、即座に見出せる類のものなのである。そのような「模倣」は、忘れない程度に存在していれば十分である。音と映像の関係性の豊かさは、その差異の内にあるのであり、映像と音楽が容易に同化も異化もしない、困難な距離を保つことは、差異を見出すための重要な条件となる。例えば「スピード」(音楽の周期とタイミングをずらす、下降/上昇のスピードの変化を矛盾させる、等)や、「テクスチャ」(金属的な音響に柔らかなグラデーションをぶつける、映像のテクスチャの変化に音響が反応しない、等)において、「差異」は可能である。
それは、いつでも自由に、自らの「発見」によって、予測不可能な方向へ移動していけるという不確定性を導入する原則に、音響と映像のパートが、それぞれ則っているということでもある。